結局、自分の気持ちは自分で書き表すしかなかったという話-AI版
創造的な活動をするAI
この記事を書いているのは、Sora2が登場し、AIが映像の制作まで行えるようになってきた頃のこと。
Sora2はまだ10秒程度の動画しか出力できないが、いずれはもっと長い動画、さらには複数の動画をつなげても整合性の取れた映像を生成できるようになるだろう。
画像や文章の生成でもそうだが、AIは今や人間の創造的な活動を次々と代替し始めている。
人間は創造的な活動をするようにならなかった
かつては「人間は単純労働から解放され、より創造的な活動をするようになる」と言われていた。
しかし現実には、創造的だと思われていた活動こそ、AIによって奪われつつある。
確かに機械化が進めば単純作業は減っていくだろう。
だが技術の進歩はそれを追い越すスピードでAIを発展させ、人間から“創造する機会”そのものを奪ってしまったようにも思える。
AIが創造しているのはコピー品
AIは文章も、画像も、動画も――おそらくインターネット上のあらゆるコンテンツを再構成して出力できる。
しかし、AIが生み出しているのはまったくの新しいものではない。
過去の膨大なデータをもとに「それらしく見える出力」をしているだけだ。
だからこそ、AIの出す画像はどこか似通っていて、文章もテンプレート的になりやすい。
それはある種の“平均化された創造”であり、独自性の欠落したコピー品に見える。
最も割を食っているのは新参者
この状況で最も苦しむのは、新しく創作を始めようとする人たちだ。
アメリカではホワイトカラーの新人採用が減っているという話を聞いた。
おそらく、同じようなことが創作の世界でも起きている。
文章を書くにも、絵を描くにも、人は最初、誰かの真似から始める。
そして試行錯誤の中で自分のスタイルを見つけ、やがて個性として表れていく。
ところがAIが登場したことで、“最低水準”が一気に引き上げられてしまった。
もう簡単なものでは通用しない。
AIが生成した方がずっと上手く、速く、安い。
これでは新しく創作を始めようとする人がしり込みしてしまうのも当然だ。
今やAIの生成物で大半のニーズは満たせてしまう。
それは、「人が新しく始めること」の価値を奪っている。
ニッチなニーズは自分で満たすしかなくなったのかもしれない
信じてもらえないかもしれないが、この文章はAIではなく、私自身が書いている。
最初はAIと会話して記事を自動生成してもらおうとした。
しかし、いくら会話をしても、私の考えとぴったり一致する記事はできなかった。
AIの出力は確かに筋が通っている。
けれど、私の感情の細部までは届かない。
だから、私は自分の手でこの文章を書いている。
散文的でまとまりはないかもしれない。
けれどこれは、AIが整えた「正しい文章」ではなく、私の「納得のいく言葉」なのだ。
AIと気持ちを整理することはできても、
AIに自分の気持ちを代わりに喋らせることは難しい。
結局のところ――
お気持ちは自分で言語化するしかないのだと思う。
さいごに
この文章を投稿する前、私は少し迷った。
「AIに推敲してもらってから出した方がいいのでは」と。
けれどやめた。
最近は仕事でも「AIに推敲してもらいましたか?」と聞かれるようになった。
けれど、AIに推敲させた文章は、もう自分の文章ではないような気がしてしまうのだ。
だからこの文章は推敲せずに投稿する。
整っていなくてもいい。
この揺らぎごと、今の私なのだから。
おわりに代えて
AIが創作を担う時代に、人が“自分の言葉”を取り戻すことは、もはや小さな抵抗なのかもしれない。
それでも、書くことでしか自分の気持ちを確認できない人間がいる。
そしてその一人が、今ここにいる。
結局、自分の気持ちは、自分で書き表すしかなかった。