他人を試すのは1回まで
はじめに
「試したな!?」というセリフがある作品を一度は見たことがあるのではないでしょうか?宗教的にも人間を試していいのは神だけであるとする宗教も存在します。
今回は他人を試すことが許されるケースをアンチパターンから想像してみましょう。
アンチパターン
不快な試され方は以下のようなケースです。
・自分の意見と違っていることをテストする
・自分の望みを言い当てることができるかテストする
・失敗することを見越す
この試し方をやる人がいますが、やられる側としては大変不快です。
やっている間は徒労感を感じますし、試された結果が出た後も不快になることが多いです。
自分の意見と違っていることをテストする代表格とは「私がなんで怒ってるか分かってる?」でしょう。
他人を試すことが適切なケース
過去の体験から他人を試し方の理想的なケースは以下のいずれかだと思っています。
・試されたことに本人が気づかない
・本人と合意がある場合
・試し方とフィードバックが良識の範囲であること
試されたことに本人が気づかない
これは試されている間気づかれていなければ問題ないと感じています。
ただ、これは高度な技術だと思っており、リスクの割にリターンがあっていない可能性があります。何故なら、能力を測りたい、失敗するだろうがそこから学んでほしいことがあるなど説明をすれば理解してもらえるからです。
本人と合意がある場合
これは最も簡単な条件です。
試されていることがわかっていれば余程のことがない限りは許されます。
これは何も毎回説明する必要はなく、慣例に従うということでも良いと思います。
この例として身近なのは面接です。面接では共に働くことができるかを試すために行われるものです。しかし、面接において能力を試すことは別に毎回断りを入れているところはないだろうと思います。
試し方とフィードバックが良識の範囲内であること
危険が伴うものややった結果、当人の評価が不当に落とされるようなやり方をする。フィードバックの仕方がハラスメントに近い場合は合意があったとしても不適切になると感じています。
最もわかりやすいのは圧迫面接でしょう。通常の面接は自分の能力が試されていることを理解できているでしょう。ただ、圧迫面接の中には常識を外れた過度なストレスを与えるようなことをしているケースは批判の対象になっています。
さいごに
アンチパターンから他人を試すことが許される状況について考えを綴りました。
このことから他人を試すというのはある程度のスキルが必要であることがわかったように感じました。
スキルといっても、失礼のないコミュニケーションや図りたいスキルについての知識を持っていれば良いのだと思います。それが難しい場合、他人を試すような真似をするのは控えるのが無難なのだと思いました。