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感想

批判をするのは割に合わない

arthur

批判と誹謗中傷の境界

2025年の日本では誹謗中傷に対する問題が顕在化している。さまざまな人が誹謗中傷に対して開示請求をしているらしく、裁判所のキャパシティを超え始めているという話も聞いた。開示請求による誹謗中傷の裁判によって、多額の支払いが請求されているというニュースが流れていながらも人々は誹謗中傷をやめない。それどころか、自分がしているのは誹謗中傷ではなく、激励であるとか正当な批判であると考えている人も少なくないとか。

お前の言葉は強過ぎる

私は普段から口を開かない。私が話すと人々が不快になることが少なくないことを経験上知っているからだ。そんな私に反省会をするために意見を出してくれという要望が来た。最初に断ろうと思ったのだが、「今が完璧だって思ってるってこと?」という煽りをされたので、忌憚のない意見を書いた結果、私の意見はなかったことになった。曰く私の批判は言葉が強すぎて相手が傷つきかねないからだそうだ。

しかし実感はない

しかし、私自身の感覚としては当然の批判を書いているだけで、特別強力な表現をしていない。実際、この表現は強いなと感じるところは削ってもいた。にもかかわらず、私の意見が封殺されたのは私にはパワハラ気質があるということのだろう。実感は全くないが。むしろ私の意見の選別を行ったおばさんの方がパワハラをしているという気さえしている。

少なくとも私は批判に向いてない

おそらく私は一般の感覚とずれている。コミュニケーションの経験も少ないのでどういう状況でならどのような発言が許されるのかの経験値が非常に乏しい。
そんな私が何かを批判するのは誹謗中傷との境を超えたコミュニケーションをとってしまうことは目に見えている。

私のような人は少なくないのではないか

Xで日々誹謗中傷をしている人たちのほとんどは自分が誹謗中傷をしている自覚はないことが多い。それを思えば、他者を批評するほどの知性とコミュニケーション能力がある人というのはそれほど多くはないのではないかと感じている。批判と誹謗中傷は関係性によったりするので実は高度なコミュニケーションなのだ。できないことは恥ずかしいことではない。

まとめ

批判をするためには高い知識や相手との関係性を良好にするコミュニケーション能力の相乗効果が必要になる。批判することは確かに重要だが、それができるほど自分が賢くないことを自覚することが必要なんじゃないかと思うのだ。私は批判をできるスキルポイントがないので黙っていることしかできない。一言物申したい時もあることはあるのだが、割に合わないのだ。

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